『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』
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(著)中村拓哉
単行本(ソフトカバー) – 2025/9/1
序文
第一部 日本語ラップの「一人称」 
第一章 日本語ラップ批評宣言 いとうせいこうから宇多丸へ
80年代のヒップホップ 文化系/不良系 サブカル/ポピュラー ニューウェーブ/ブラック・ミュージック
ピカテン/ホコテン
スネークマン・ショーの桑原茂一が開店したクラブ、ピテカントロプス・エレクトス
いとうせいこう、近田春夫、藤原ヒロシ、ヤン富田などの文化圏。
歩行者天国でのブレイクダンスやDJ
CRAZY-A、DJ KRUSH、B-FRESHなどの文化圏
この対立はポスト・モダニズム/ファンダメンタリズムの区別でもある。
ピカテン派はポストモダン的な差異化ゲームのタームにおける競争であった事に対し、ファンダメンタリズムはUSヒップホップに対して忠実な態度を取る。
差異化ゲームの中でヒップホップを介して他者に卓越、超越しようとするポストモダン勢に対して、唯一参加すべきゲームとしてヒップホップに内在するファンダメンタリズム勢。
この対立は90年代に振り返られる際に論争となり、「日本語ラップ」という呼称が誕生。
磯部涼は、日本語ラップと言うジャンル自体の誕生が、ジャンルの歴史や批評の誕生と時を同じくする倒錯性を指摘。
『Jラップ以前』と『JAPANESE HIP-HOP HISTORY』
Jラップの規定
いとうせいこう・近田春夫の対談
ヒップホップの盗みの文化というポストモダン的解釈で日本人がヒップホップを盗むことを正当化する。
仮想のディストピアとしての東京でポスト・パンク的なゲットーの蜃気楼としての「東京ブロンクス」の翻訳性。
パブリック・エナミーとKRS・ワンの登場でアフリカン・アメリカン至上主義的な言葉への連帯できなさにぶつかる。
ポストモダンにおいてアイデンティティは虚構であり、流動的であるアイデンティティから逃走すべきである。
宇多丸
ヒップホップは「一人称」の文化である。
ヒップホップの強烈な一人称は、聞く者に、他者として、外部として、盗みえないものとしてあらわれる。まずはその断絶を認めるところから始める。しかし、そこで立ち止まらざるをえなかったいとうとは異なって、宇多丸はさらに先へ進もうとする。いわく、その他者の強烈な「一人称」はなにか「力」、「刺激」、「衝動」といったものを伝える。つまり、宇多丸は「一人称」に過剰なもの、剰余を見出すのであり、その伝達、あるいは贈与の瞬間をとらえる。「一人称」は単なる道徳的な「自己表現」ではないのだ。それは他者を触発する「一人称」である。
ヒップホップの発展の発生的起源を規定することで「日本語ラップ」という欲望をも説明する。
「で、てめえはどうなんだ?」
と問い、問われること
第二章  「一人称」の翻訳性
RHYMESTER『リスペクト』
差異化ゲームにおける相対的な新規性ではなく、ヒップホップという唯一のコンペティションに内在することで、「一人称」の絶対的な単独性で突き抜ける。
日本のリアリティと乖離していると批判されていたオーセンティシティ志向において、その外部性を通して日本のリアリティ自体を変革するという野心を抱いていた。
日本的リアリティを支えるイデオロギー、すなわちマジョリティ的で、中流的で、進歩史観的であるような思考や生のスタイルそのものへの根本的な批判を、すでに日本語ラップというプログラムは内包していたということでもある。
東京ブロンクスのさみしいオリジナル性
人に会いたいYO 誰でもいいYO どんな奴でもいいYO
生きてりゃいい そばにいればいいから誰かここに来てくれ
ひとと同じことはやらないけど死ぬときゃ一緒がいい (「東京ブロンクス」)
他人と違うこと、という差異化ゲームの論理においてオリジナリティを考えることによる孤独。
Kダブシャイン「自分が自分であることを誇る」
近田春夫「Egoist」の日本の裕福な日本人がアフリカン・アメリカンの音楽を盗むことのエゴイストさの自虐でも、キミドリの「自己嫌悪」などの終わりなき日常を生きろ(宮台真司)的なリアリティを塗り替えようとするテーゼ。
コンペティションを通じて自己を磨き上げる過程で「自分が自分であることを誇る」
同じリズムで踊ることができる場としての、ヒップホップ・ネーション的な共同体の称揚。ファンカデリックやジェームズ・ブラウンから続くリズムがイズムを作るグルーヴの内在性から集団性
リズムがイズムを作り出す、RHYMESTERは底から進んで一人称同士の連帯について「リスペクト」を思考する。
ここでは「リスペクト」の一語において、他者と自己を肯定するコミュニケーションが描かれている。肯定は承認と異なるだろう。ヘーゲル的「承認を巡る生死を賭した闘い」が否定性のコミュニケーションであるとすれば、「リスペクト」は単独性において他者と肯定をやり取りする肯定性のコミュニケーションである。
60年代黒人運動の文脈の継承。アレサ・フランクリンの楽曲からの引用。
ブラック・ミュージックとしてヒップホップを捉えるということの徹底である。
リロイ・ジョーンズ『ブルース・ピープル』
奴隷解放による社会的変化が個人化を進め孤独が生まれる。そこから独特のシャウトやハラーが誕生し、一人称性的なものが浮上した。
西洋近代的個人が、抽象化された「特殊性」の「私」という枠組みにあるのに対して、ブルース的一人称は「単独性」の「この私」を歌う。こうした、西洋近代的概念の読み替え/書き換えを、ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアの概念を用いて「シグニファイング」と呼ぶことができるが、まさしくブルースとはシグニファイングされた「一人称」なのだ。
この一人称は、単純なものの反復の只中で生成されることである。
リフの文化でもある。
鈴木雅雄の解説
近代とは主体がオリジナルであろうとした時代であり、同時に複製技術の進歩によって、オリジナルなものがまたたくまにオリジナリティを失っていく時代でもあった。だがそこでオリジナルである方法は、ある理論に従っていまだ実現されていない何事かを実現しようとすること、いわば前に進もうとすること(つまり「前衛」であること)だけではなかった。私に取りついてしまう何かを反復し、しかし決して成功しないその反復のなかで、別の何ものかを生み出してしまうことに賭ける選択もまたありうる。これはつまり、自分にできないことをできるようになろうとすることではなくて、すでにできてしまっていることに価値を見出す態度である。(⋯⋯)理論的に新しいものを作り出そうとすることが「前衛」であろうとするなら、理論化出来ないものの反復によって創造するという選択は近代のもう一つの可能性であった。
前衛キッズとして考えるべきことだ。。。Kai.icon
チャールズ・カイルのグルーヴ論。参与的不一致。
人々が演奏に参加することによって不可避的に生まれる音楽的なズレが生じ、そのズレによって生み出されたグルーヴが人々を更に音楽に引き込むというループ的プロセス。
ロラン・バルトの「言語のざわめき」的なグルーヴからのコミュニケーション論。
第三章 「空虚」な「一人称」からストリートへ
宇多丸のラップ批評は当時全く受け入れられられず、誤解されていた。
当時の日本語ラップの右傾化的印象はキングギドラの右傾化の影響が大きく、全体が右傾化していたわけではない。
サウンドデモを始めとした反戦デモも立ち上がった。
ECD『失点 in the park』
しかし当時のヒップホップの右傾化論は、「一人称」と言う形式とその内実の乖離の問題でもある。
佐々木敦「微かな「抵抗」としてのヒップホップ」
日本へのヒップホップの輸入にあたって、何をラップするのかと言う困難があった。
RHYMESTERを始めとするオーセンティシティを望む者たちの対象
極私的な上京がはらむ問題についてか、日本のヒップホップの社会的ポジションについての問題についてかの二択
一人称の内実のなさ、空虚さ。
当時は空虚であった、grateful days時代のZeebraが歌うヤンキー性は、それをリテラルに受け取るANARCHYの登場によって、無効化された。
日本語ラップを批評していた批評家たちが立脚していた一億総中流社会的な幻想を打ち破り、変革すべき現実をあらわにした。オーセンティシティ主義がこのリアリティを発見した。
第四章 ヒップホップ・フェミニズム
ヒップホップとフェミニズムの出会いと失敗、「ヒップホップ・フェミニズム」概念の登場
フェミニズムとヒップホップの関係をめぐる困難とは、「前衛性」と「通俗性」の問題である。「前衛的」であるべきフェミニズムがヒップホップに可能性を感じるとき、しかしそこには不可避の「通俗性」が入り混じることになり、それが「前衛性」を毀損する。しかしながら、その「通俗性」を切り捨てるとき、フェミニズムには失敗が待ち受けている。
ポスト68年、ポストソウルのフェミニズムとしてのヒップホップ・フェミニズム
インターセクショナリティ
彼らは、クィアの暴動/デモを見て、その強烈な「一人称」の「力」を受け取り、触発され、突き動かされた。クィアの「一人称」と黒人の「一人称」が韻を踏んだ。彼らは、他者の闘争を通して、自らの闘争を理解する。より自己の闘争を推し進め、そのことが他者との連帯に開かれる。私たちは、連帯論を隠喩化、押韻化することを思考しなければならない、と言おう。あるいは、「一人称」の連帯の論理は押韻的であらればならない、と。
第五章 「J」の殺戮者としての日本語=反日ラップ
第六章 ポスト68年としてのヒップホップと日本語ラップの皮肉な勝利
第二部 反復=肯定の思想
第一章 微分、一義性、反復=肯定
第二章 中性的なものの反復=肯定
レオ・ベルサーニ
第三章  非感性的類似と韻
第四章  同じであること、非人称的ナルシシズム
第五章 反復的な生の救済のドラマ
第三部 ディスクールの詩学
第一章 ラップの詩学
第二章  ミュトス、ミメーシス、隠喩
第三章  SEEDA『花と雨』
超面白いリアルな作品批評だった。Kai.icon
「一人称」のディスクール━━あとがきにかえて